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御三家のひとつ、水戸徳川家ゆかりの地をめぐるコース

『山寺水道01』の画像

山寺水道

徳川光圀公が生母を弔うために久昌寺を建立した当時、その周辺は水の便が大変悪いものでした。そこで、光圀公は久昌の寺域や周辺に生活用水を導水する上水道の建設を計画しました。山寺水道は、その際に開設された水道の一つ。設計・施工を行ったのは、水戸市の笠原水道なども手掛けた永田円水とされています。水源は天神林町や稲木町の台地縁端から湧出する地下水で、湧水線に沿って埋めた集水溝、あるいは桶によって水を集めていたものと思われます。水路の構造は、すべて岩肌をくり抜いた、全長およそ2kmのトンネル状。その形状は、高さ約1.6m、幅約1.3mで不整形なかまぼこ型をしています。トンネル底部に幅・深さとも30cm程度の溝を掘り、水路として利用するなど、当時の土木技術の水準の高さがうかがえる工夫が随所に見られます。茨城県指定文化財。

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『永田円水の墓』の画像

永田円水の墓

かつて水戸藩の領内では、利水・治水事業が盛んでした。特に徳川光圀公の時代には、堰や用水路の整備による農業用水の確保や堤防の補強などを重点的に進めてきました。常陸太田市内でも、久昌寺周辺の水源確保のために清命水道と山寺水道の2つの水道が敷設されています。この両水道の設計・施工を行ったのが、水戸市の笠原水道の施工にも関わっていた永田円水です。永田家は甲斐武田家の家臣として、代々鉱山開発に携わってきた一族。その後、水戸徳川家に仕え、水戸藩の発展に大きく貢献しました。「円水」の号は、その功績を称えて光圀公が与えたものと言われています。

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『白馬寺』の画像

白馬寺

白馬寺の開基である源如庵和尚は、文和年間(1352-56)に中国河南省洛陽に渡り、仏法を学びました。帰国後、天文2(1533)に幻室伊峰禅師を招き、現在の常陸大宮市に白馬寺を創建しました。白馬寺の名の由来は、源如庵和尚が中国で修行を積んだ寺院「白馬寺」にちなんだものです。その後、文永年間(1592-96)に石塚村(現在の城里町)に移り、元禄9(1769)年、徳川光圀公の命を受けて現在の場所へと移築されました。なお、現在の本堂は、安永2(1773)年に再建されたものです。なお、本尊の木造宝冠釈迦如来坐像は市指定文化財となっています。

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『山寺晩鐘の碑』の画像

山寺晩鐘の碑

水戸徳川家九代藩主・徳川斉昭公により選定された「水戸八景」の一つに建てられた石碑で、この碑が位置する茨城県立西山研修所構内東南の高台は、久昌寺の附随施設として設けられた学寮「三昧堂檀林」の跡地にあたり、常時数百名の学僧が修行を積んでいたとされる場所で、暮れ六つ時(午後6時)になると、勤行の声や梵鐘の音が太田の町中に響き渡っていたといいます。藩士の文武を奨励した斉昭公は、その一環として中国の「瀟相八景」になぞらい、領内の景勝地の中から水戸八景を選定することで、藩士にそれらを鑑賞させたり、詩歌を詠ませるための場を設けたものと考えられます。碑に刻まれた文字は、斉昭公の筆跡によるもので、「山寺晩鐘響幽壑」(山寺の晩鐘幽壑に響く)との詩歌も残されています。

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『久昌寺』の画像

久昌寺

深大山禅那院と号する久昌寺は、延宝5(1677)年に徳川光圀公が生母の谷久子を弔うために建立した寺院。久子の法号である「久昌院靖定大姉」からその名が付けられました。当初は現在の稲木町に建てられたものの、幕末の混乱期の影響を受けて荒廃。明治3(1870)年に現在の場所にあった久昌寺の末寺・蓮華寺と併合することで再建されました。堂宇は本堂、庫裏、聚石堂、三昧堂、大宝塔などを備えているほか、年代ごとの光圀公の顔を掘った「木彫義公面」や公の暮らしぶりが細かく記された「日乗上人日記」、文永元(1264)年に書かれた日蓮聖人の消息文などの多くの寺宝が残されています。また、寺のすぐ後ろには、光圀公の遺徳を偲んで建てられた「義公廟」があります。

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『下矢印(青)』の画像  徒歩3分
『義公廟』の画像

義公廟

西山公園の駐車場から坂を登った先の右手に見えるのが義公廟。昭和16(1941)年、久昌寺裏の高台に徳川光圀公(義公)の遺徳を忍んで建立されたものです。 廟の中には、光圀公が生母の菩提を弔うために、法華教1部10巻8万3900字あまりを書き写した桧板30枚を納める宝塔、光圀公が集めた明版一切経が収蔵されています。

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 『西山御殿跡』の画像

 西山荘 (西山御殿)

「水戸黄門」で知られる、水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後、元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所。光圀公はここで『大日本史』の編さんの監修に当たりました。入口には光圀が紀州から取り寄せ、移植した熊野杉が天を覆っています。建物は茅葺き平屋建て、内部は粗壁のままで、どの部屋にも装飾はなく、書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まいです。なお、現在の建物は、文政2(1819)年に再建されたものです。春の梅、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など、季節ごとに異なった表情が楽しめる、美しい情景は必見です。常陸太田市を代表する歴史的観光スポットのひとつです。

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 『太田落雁』の画像

 太田落雁

水戸徳川家九代藩主・徳川斉昭公が領内を巡視し選定された「水戸八景」の一つ。藩士の文武を奨励した斉昭公は、八景めぐりを通じて、藩士たちの心身の鍛練を図ったとされてます。かつて、この碑がある高台付近からは、阿武隈連山を背景とした素晴らしい眺めや「真弓千石」と呼ばれる水田地帯、雁が刈田に降りる様子などを望むことができました。その情景を斉昭公が「さして行く 越路の雁の 越えかねて 太田の面に しばしやすらふ」と詠んだことから太田落雁と命名されたといわれています。

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 『下矢印(青)』の画像  車で7分
 『佐々宗淳(助さん)の墓』の画像

 佐々宗淳(助さん)の墓

正宗寺には、彰考館総裁を務めた佐々宗淳の墓があります。宗淳は、光圀公の側近として活躍、『大日本史』の編さんにも関わっており、その基礎となる資料を収集するため、全国各地を行脚したと言われています。この史実が脚色されてできたのがテレビドラマなどで知られる「水戸黄門」で、宗淳はこの中の「助さん」のモデルとされています。ちなみに、西山荘の入口にある不老池の近くには、宗淳の住居跡も現存しています。

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 『下矢印(青)』の画像  車で7分
 『町田焼窯跡』の画像

 町田焼窯跡

町田宿中通りの太田警察署町田駐在所の北側には、東に入る市道があります。町田焼窯跡は、その市道を300mほど進んだ先に残っています。町田焼は第九代水戸藩主・徳川斉昭が産業振興の一環として押し進めた製陶事業により、領内の「偕楽焼」や現在の栃木県馬頭町の「小砂焼」などとともに設けられた窯でしたが、天保の改革による藩財政の都合などにより思うように進まず、明治元(1868)年頃に廃窯となってしまいました。しかし、今も残る町田焼の名と窯場跡は、往時の様子を思い起こさせてくれます。なお、近年では、地元町田町住民の呼びかけにより、窯跡の発掘調査や町田焼の復興が進められています。

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