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常陸国を統一した佐竹氏ゆかりの地をめぐるコース

『馬坂城跡』の画像

馬坂城跡

馬坂城は、平安時代末に、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫で、佐竹氏の祖とされる昌義が築いた城郭です。約6032m2の敷地に3つの曲輪を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田川まで広がる湿地帯に囲まれた、まさに自然の要塞と言えます。佐竹氏が三代隆義の時代に太田城(舞鶴城)に移った後は、 四代秀義の子、義清が稲木氏を名乗って移り住むなど、佐竹氏一族の居住となっていましたが、慶長7(1602)年、佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となりました。また、城内には、縄文時代前期(約8000年前)に営まれたと見られる間坂貝塚があります。

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『下矢印(青)』の画像  車で3分(徒歩8分)
『佐竹寺』の画像

佐竹寺

佐竹寺は、鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所。大同2(807)年の開山、あるいは、寛和元(985)年に花山天皇の勅願を受けて元密上人が創建したとも言われています。創建当初は、鶴ヶ池の北に位置する観音山にありましたが、天文12(1543)年に兵火によって焼失、同15(1546)年に佐竹義昭によって再建されました。一時は隆盛を極めたものの、佐竹氏の秋田移封にともない、その寺運はしだいに衰えていきました。本尊の十一面観音像は、安産や厄除けなどに御利益のあるとされる仏様で、坂東三十三観音二十二番霊所にもあたることから、巡拝者が絶えない古刹としても広く知られています。重厚感あふれる佇まいの本堂は茅葺き寄棟造りで、正面中央には唐破風が設けられています。正面の火頭窓や柱、組物など、あらゆる箇所に桃山時代の建築物の先駆とも言える遺構が残された、常陸太田市の誇る貴重な文化財の一つです。

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『下矢印(青)』の画像  車で8分
『若宮八幡宮』の画像

若宮八幡宮

佐竹氏十三代義人が、応永年間(1394~1427)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、太田城中に祀ったことに始まります。義人は関東管領の上杉家から八歳で佐竹家に養子に入り、そのことが佐竹山入一族と約100年にわたる抗争の発端となりました。佐竹氏国替え後の宝永五年(1708)、中山備前守によって現在地に移され、社殿が造営されました。『新編常陸国誌』の若宮八幡宮の項には「神体は絵像」とあり、僧形八幡画像のことと思われます。この像は、錫丈を持ち、斜め向きに座す姿で、袈裟には金泥で文様が施されています。

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『下矢印(青)』の画像  車で3分(徒歩6分)
『太田城跡(舞鶴城)』の画像

太田城跡(舞鶴城)

太田城は、別名舞鶴城とも呼ばれ、約470年間にわたって佐竹氏が居城となっていました。佐竹氏三代隆義が入城する日に、鶴が城の上空を舞いながら飛んでいたことから「舞鶴城」と呼ばれるようになりました。築造年代は定かではありませんが、藤原秀郷の子孫である通延により、平安末期に太田大夫と称して築城されたといわれています。その後、佐竹氏の秋田に移封されたのに伴い廃城となりました。城域は内堀町から栄町までの広範囲にわたり、本郭は現在の太田小学校付近であったとされています。なお、若宮八幡宮の境内には、「太田故城碑」が建っており、当時の名残を留めています。

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『下矢印(青)』の画像  車で6分(徒歩12分)
『馬場八幡宮』の画像

馬場八幡宮

天喜4(1056)年、源頼義が陸奥の安倍頼時鎮撫に向かう途中、源氏の氏神で、伊勢神宮と並び国家の宗廟と称されていた、石清水八幡宮の神霊を当地に分祀したことが馬場八幡宮の起源。以降、佐竹氏の守護神としても崇められ、初代の昌義は社殿を造営し、大田郷の総社とされました。さらに、3代目隆義の頃には、本社、礼拝堂、楼門、神宮寺、庁屋の5つの殿堂を築造。しかし、天正2(1574)年に雷火のために運悪く焼失してしまいます。現在の社殿は、19代義重が同8(1580)年に造営したもので、本殿の柱上の木鼻の浮彫文様の各面すべてが異なるなど、躍動感にあふれた造り、室町時代の建造様式を今に伝えています。その後、徳川光圀公の社寺改革により、馬場町、増井町、上大門町、下大門町、新宿町の一部の総社となりました。往時には5年に1度、日立市の久慈浜まで向かう浜下り神事が執り行われていました。

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『下矢印(青)』の画像  車で7分
『正宗寺01』の画像

正宗寺

萬秀山正法院と号する寺院で、延長元(923)年に平将門の父良将が創建。創建当初は勝楽寺と号し、律宗で奉仕されていました。その後、貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を、暦応4(1431)年に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き、同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えましたが、正宗寺は佐竹氏の菩提所として、関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受け、12の末寺を有するまでになりました。境内は約5,300m2、堂宇は本堂、庫裏、総門などを備えていましたが、天保9(1838)年に総門の一部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は、それぞれ天保10(1839)年と明治3(1870)年に再建されたものです。寺伝では慈覚大師の作とありますが、様式から鎌倉時代に建造されたものとみられています。本尊の木造十一面観音菩薩坐像をはじめ、多くの寺宝が茨城県や常陸太田市の文化財に指定されています。
また、寺の参道左側には、市の天然記念物に指定されているビャクシンがあり、境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔や、「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓があります。

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 『下矢印(青)』の画像  徒歩2分
 『佐竹一族の墓』の画像

 佐竹一族の墓

佐竹氏代々の墓所となっている正宗寺は、佐竹氏一族の墓と見られる宝篋印塔が並んでいます。これらは、佐竹氏が秋田に国替えになった際に運び出さなかった墓が境内に散在していたため、戦後に現在の場所に集められたものと考えられています。

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 『下矢印(青)』の画像  車で38分
 『西金砂神社01』の画像

 西金砂神社

西金砂山の頂上にある神社で、祭神は大己貴命と国常立命と少彦名命。大同元(806)年に宝珠上人が、社殿を造り祭壇を設けて、近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりとされます。社地は自然林に囲まれた西金砂山の一帯を占めており、県の天然記念物にも指定されている大イチョウ、大サワラなどの名木の数々を見ることができます。72年ごとに行われる大祭礼や6年毎に行われる小祭礼の際に奉納される田楽舞(国選択・県指定無形民俗文化財)でも名を馳せています。

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 『下矢印(青)』の画像  車で45分
 『東金砂神社』の画像

 東金砂神社

東金砂山の頂上に位置する神社で、祭神は大己貴命と少彦名命。創建は西金砂神社と同じく大同元(806)年、平城天皇の勅願によって宝珠上人が社殿を造営し、祭壇を設けて、近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀し、国家安泰、五穀豊穣の祈願所としたのが始まりとされます。72年ごとの大祭礼や毎年2月に行われる嵐除祭の際に奉納される田楽舞は国選択・県指定無形民俗文化財。また、樹齢約500年を誇る御神木のモチノキは県指定天然記念物です。

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