日立の大煙突(公害対策)を通して環境を学ぶ(日立市)
大煙突
平和通りの桜並木
日鉱記念館
日立の由来
元禄時代、テレビで有名な光圀が神峰神社参拝の折「旭日の立ち昇る光景の偉大なるは、領内無二」と仰せられたと云う古事により、日の立つ村「日立」と命名されました。
煙害と大煙突
明治38年、小坂銅山から独立後、赤沢銅山を買収し日立鉱山を創業しましたが、大きな障害となったのが、銅山の宿命、銅鉱石より出る亜硫酸ガスが周辺の樹木や農産物に多大な被害を与える煙害です。
当時これを防ぐ技術は無く各銅山共対策に苦しんでいましたが、久原はこの被害を絶滅させるため、大正4(1915)年、日立鉱山の社運をかけて世界一の大煙突が建設されました。現在の日立市があるのはこの大煙突のお陰と言って過言ではありません。
昭和38(1963)年、回顧録「煙害問題昔話」に94歳の久原房之助が次のように述べています。
「公害問題は常に新しい。これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。 しかし、この努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害問題は、むしろ、われわれに対し「克己(こっき)(おのれに勝つ)」いうことを教えてくれているといえよう。」と語っています。
さくらの町日立の誕生
日立鉱山は、枯れ死した山々の緑を蘇らせるために、耐煙木としてオオシマザクラを320万本植林しました。その後、工場、社宅、施設の周辺にさくらを植えたのが「さくらの町日立」の始まりで、現在、日立市のさくらは14000本と多くのさくらがあります。
当時の銅山の宿命、大公害を円満に解決した日立鉱山の煙害対策(大煙突)は、環境・経営関係者が非常に高く評価されています。
平成8(1996)年、カナダのノーザン・ブリテッシュ・コロンビア大学のケニス・E・ウイルケニン教授は、つくば市で開かれた酸性雨国際シンポジウムで「日本近代史における日立鉱山と酸性雨問題」と題して発表し、個別の被害補償や大煙突を建設するなどの化学技術を駆使した対策を高く評価し、世界中の企業が見習うべきとしています。
学習のポイント
- なぜ当時、世界一の大煙突がつくられたのか
- さくらの町となった理由
- 日本鉱業から生まれた「日立製作所」
旅の小話
- 新田次郎の著書『ある町の高い煙突』のきっかけはお天気相談所の所長であった山口秀夫氏(現国会議員
山口那津男氏の父)が気象庁出身の新田次郎に紹介したことによります
日鉱記念館 茨城県日立市宮田町3585 TEL0294-21-8411
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- 2016年5月6日
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