もっと知りたい観光情報

常陸太田の大地の見どころ

竜神峡

 竜神峡は、竜神川が長い年月をかけて周辺の地層をけずっていったことによってできた峡谷です。「竜神大吊橋」は、その竜神峡に架けられ、茨城百景の一つにも挙げられている鉄橋です。1994(平成6) 年の開通以来、毎年多くの観光客が訪れる一大観光スポットです。

 吊り橋の塗り替えは今までに2001 年と2013 年の2 回行われました。橋長は375m を誇り、歩行者専用の吊り橋では、本州一です。地上高100mの橋上から望む八溝・阿武隈山系の山並みや水府の街並みもさることながら、橋のなかほどに設置されたアクリルの透過板から見下ろす竜神ダムの湖面も見逃せません。日常では経験できないその眺望からは、身がすくむようなスリルと自然の驚異を感じられることでしょう。

 右下の竜神峡の空中写真を見ると、まさに竜の姿に見えます。やはり竜神峡の奥に竜が潜んでいたという伝説は本当だったのでしょうか?

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 周辺にはお土産屋さんやレストラン、入浴施設などがあります。また、ハイキングコースが充実しており、亀ヶ淵や武生神社など様々なスポットへ行くことができます。ハイキングコースからは竜神峡の様々な淵や瀬せ、また眺望などを楽しむことができます。

 

竜神峡おすすめルート!

第一駐車場・水府物産センター→竜神大吊橋→木精の鐘かね→常陸太田ジオサイトの看板→峡谷をつくる岩石→回転扉→竜神ダムの順序で進むのがおすすめです。ただし、途中の回転扉を出てしまうと、竜神大吊橋には戻れないので注意してください。

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アクセス

竜神大吊橋
水府物産センター
〒313-0351
常陸太田市天下野町2133-6
TEL.0294-87-0375

【バスでお越しの場合】
常陸太田駅より天下野・大子・高倉行きのバス乗車、「竜神大吊橋」または「竜神大吊橋入口」下車、徒歩20分。

【車でお越しの場合】
常磐道・日立南太田IC より国道293 号、県道33 号経由で約40分。

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竜神峡を歩いてみよう!

 竜神峡のおすすめスポットを紹介します。

 

竜神大吊橋

 竜神川が作った竜神峡に架けられた吊り橋で、上からは峡谷の新緑や紅葉といった景色やダム湖を見渡すことができます。こ
の吊り橋の高さは湖面より約100m、長さは375mあり、歩行者専用の吊り橋としては、本州一の長さです。1994年に完成し
た当時、歩行者専用の吊り橋として日本一の長さでしたが、2006年に大分県玖珠郡九重町に九重“夢”大吊橋(長さ390m)が完成し、日本一の座を奪われてしまいました。構造的には1本3 トンに耐えられるピアノ線が1159本束ねられたことで、約1000トンの力、人が3500人通行しても耐えられる力を誇っています。
 ピアノ線も重要なのですが、橋にはそれを支える硬い地盤がさらに重要で、この辺の土地は適しています。また、2013年に2回目の塗り替えがなされ、新たな姿を見せました。通行には、渡橋料(大人310円小人210円)がかかります。時期により様々なイベントが開かれています。

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木精の鐘

 竜神大吊橋の対岸に、“木精の鐘”と名付けられたカリヨン施設があります。
 ここでは「愛」「希望」「幸福」の3 つの鐘の音が鳴ります。「愛」の音は二人でボタンを押さないと鳴らないため、カップルに人気のスポットとなっています。カップルにかぎらず、親子、友人などで竜神峡に響き渡る鐘の音を楽しんでみてはいかがでしょうか?

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峡谷をつくる岩石

 吊り橋を渡った先には看板があります。こちらも読んでみて下さい。その後、東屋の先の階段を降りていくと、その道の両側でゴツゴツした石が見られます。これは「男体山火山角礫岩」といい、この周囲の山が海底で火山活動をしていた頃に吹き出した溶岩によってできた硬い岩石です。溶岩が10cm 程度の「礫」となり、その周りは火山灰でうめられています。この石は男体山や袋田の滝、鍋足山などをつくっているものと同じものです。これほど大きな吊り橋を支えるためには、その力に耐えられる硬い地盤が必要なので、この岩石は最適といえます。
 それにしても、これほどの地盤を地上へと動かした地球のパワーと、深く削りとった川の水の力は計り知れないものですね。

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竜神ダム

 竜神ダムは、竜神川を堰き止めてつくられたダムです。1960年代頃にこの竜神川の下流域で洪水が頻繁に起こったことから、1979年3月に完成しました。このダムの完成によってできた“竜神湖” は、空中写真ではまさに竜の形に見え、合計300万㎥の水を貯めることができます。遊歩道からは、空に架かる竜神大吊橋とともに、秋には紅葉、春には新緑の風に泳ぐ鯉のぼりなどの景色が楽しめます。

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亀ヶ淵

 竜神ダムから約4km、時間にして1 時間ほど歩くと到着します。
 竜神峡には様々な淵や瀬があります。代表的な淵として、竜神峡最奥部の中央に「亀ヶ淵」があります。これは、古い滝壺が変化してできたと言われています。このような淵や瀬は流水によって周囲の岩石を削って作られた地形です。
 亀ヶ淵には伝説があり、淵の底は大子町上小川の「わにが淵」に通じているとも、常陸太田市天下野の「百目木の源太淵」に続いているとも言われています。さらにこの水は日立市水木町の泉が森にふき出しているものだとも言い伝えられています。
 竜神ダムから遊歩道を歩き、ここ亀ヶ淵で休憩してみてはいかがでしょうか。竜神ダム方面、武生山方面のほか、明山・篭岩方面との分岐点となっています。新緑や紅葉などの周囲に広がる自然を楽しみながら、ハイキングを行うことができます。

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赤岩展望台

 竜神峡の第2駐車場から一本道を南西方向に約1km 進めば、景色が一望できる山の上に、この展望台があります。ここからは竜神大吊橋を望むことができます。ほかにも、明山、男体山、高鈴山などを見渡すことができます。

 

竜神峡の誕生についてを知ろう!

 

竜神峡と火山

 竜神峡は昔の海底の火山活動によってできた峡谷です。約1500万年前、この竜神峡周辺は海底にあり、その海底で火山が誕生しました。その後この地域一帯が隆起し、この火山は陸上に姿を現しました。さらに、火山によって作られた地形が降水や気温変化などで長い時間をかけて風化・侵食することで、現在のような竜神峡が誕生しました。

 

陸上火山と海底火山の岩石

 火山から吹き出した溶岩流は陸上と海底で大きく異なります。陸上では連続的にドロドロ流れますが、海底の場合は、海水によって溶岩流の表面が急激に冷やされることによって、表面がすぐに固まり、断続的に流れていきます。さらに海水によって急冷されることで、溶岩はバリバリに割れてしまいます。これは熱したガラスを水に浸すとガラスが割れるのと同じ原理です。
 竜神峡周辺を構成する古海底火山は、主にバリバリに割れた岩石を主体としています。この岩石は中心部より色が濃いガラス質の縁が形成されていたり、中心部から放射状に割れ目が発達していたりします。これらは熱い溶岩が急激に冷やされたためにできたものです。

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棚倉断層

 棚倉断層は日本列島の骨格形成の時に重要な役割をはたしたと考えられています。それは今から1500万年前の出来事です。それでは、1500万年前の痕跡を探しに出かけましょう!

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アクセス

棚倉断層外観

常陸太田市高倉交流センター
(旧水府村立高倉小学校)
常陸太田駅より天下野・大子・高倉行きバス乗車、「馬次入口」下車

棚倉断層露頭

常陸太田市上高倉町坂下、上圷橋付近の山田川沿岸

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地形から断層を見てみよう!

棚倉断層外観

 棚倉断層は、北北西-南南東に並走する2 条の断層です。ここで観察できる断層はそのうちの一番西側に位置する「棚倉西縁断層」です。写真2-1 のように、急な崖が直線的に連続して並んでいるのが観察できます。これが断層崖です。山地と畑の境目のあたりに断層が走っています。
 断層の西側には男体山を構成しているデイサイト質※の「男体山火山角礫岩」が分布しています。ここで観察される断層崖は、男体山火山角礫岩が固く、風化・侵食に対して強いために、断層により切断された部分が急な崖として残ったものです。男体山火山角礫岩は、竜神峡でも観察することができます!
 ※デイサイト質: SiO2 ( 二酸化ケイ素) の量が63 〜70%の火山岩。SiO2 の量はマグマの粘性に深く関係し、その量が少ないほど( 玄武岩質なほど) 粘性が低く、溶岩であれば流れやすくなる。

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実際に断層面を観察してみよう!

棚倉断層露頭

 棚倉西縁断層は国道461 号線沿いに露頭もみられます。ちなみに、岩石に強い力がかかると岩石はこわれます。その時、岩石に割れ目ができ、その割れ目にそってずれることがあります。このずれをともなった割れ目のことを断層とよんでいます。

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 では、露頭の近くに行ってよく観察してみましょう。写真2-2 で示すように、ほぼ垂直で北北西-南南東に延びた面が断層面です。この断層の延びる方向が棚倉断層全体の延びの方向と一致しています。写真2-3 では、断層面に厚さ約5cm ほどの粘土層がはりついているのがわかりますね。これは、断層が動いたことによる摩擦によって岩石が砕け、そこに地下水がしみこみ、粘土となったことを示しています。

 

棚倉断層と日本列島の形成!

 棚倉断層が活動した1500万年前は、日本列島が大陸から離れ、日本海が出現し始めた時期です。その動きはまるでドアを押し開けるように、北と南に分かれて動き、それが今の日本列島のくびれの要因となりました。その境となったのが棚倉断層だと考えられています。

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カンブリア紀の岩石

常陸太田市長谷町の茂宮川や町屋町の梅島川の最上流部には、カンブリア紀の岩石があります。このあたりの常陸太田市と日立市にまたがる日立変成岩地域には、日本列島がまだ大陸の一部で あった頃の地層が見られます。最も古いものは、約5億年前の“カンブリア紀”とよばれる時代のものです。 日本列島が誕生する前からの長い歴史を イメージしてみてください。

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カンブリア紀の岩石に行ってみよう!

常陸太田市の西堂平と町屋ではカンブリア紀の岩石が見られます。

西堂平

常陸太田市長谷町の林道を進んで行った 地図上★付近には、約5億年前のカンブリ ア紀の岩石が見られます。 現在、日本で確認されている年代として最古の年代の地層の一部がはがれたとのものと考えられています。そこまでの林道脇には、約1億5千万年 前の白亜紀の地層が見られます。こちらは筋の入った地層ですが、その中にも5億年前の石が入り込んでいるとされています。また、手前の(地図上★) 付近では、コー トランド岩という火成岩が見られます。 コートランド岩は全国でも珍しい緑色をしている石で、硬くて重い岩石です。

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町屋

常陸太田市町屋町にある「角閃岩」や「片岩」とよばれる石の採石場・川西採石場(地図上の★) では、角閃岩と片岩が交互に重なり、 層になっている様子が見られます。この地層の中の角閃岩のなかから5億700万年前の年代のもの (地図上の★) が得られています。 また、この付近では「まだら石(町屋石)」とよばれる蛇紋岩がみられ、 水戸徳川家の墓石に用いられています。水戸藩では、この岩石の採取を一般領民に禁止していたので、現在でもあまり利用されていません。 この周辺の林道沿いから里川にかけてこのまだら石の石ころが見られ ます。様々な模様がありますので、見つけてみてはいかがでしょうか?

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アクセス
  • 西堂平ルート
    常陸太田市中心部から国道349号線を進み、グランドスラムカントリークラブの先。徒歩で約20分。
    ※林道内は許可車輛のみ。
  • 町屋ルート
    常陸太田市中心部から国道349号線を進み、 町屋町「旧河内小入口」交差点から東へ約1.5km。
    ※川西採石場を見学する際には、現地での許可が必要です。

カンブリア紀とは?

今、私たちが暮らしているのは、「新生代」と呼ばれる、ほ乳類の時代です。ティ ラノサウルスなどの恐竜が生息していた 時代は約2億年前の「中生代」といいま す。その恐竜の時代よりも更に古い時代を、「古生代」といいます。 「カンブリア紀」は、その古生代をさらに分けた中で、最も古い約5億4000万年前〜4億9000万年前までの年代をいいます。地球に生命が誕生したのは約35億年 前と言われています。ただ生物といってもバクテリアなどの微生物で、この時代が長く続いていました。そして「カンブリア紀」になると一気に生物の種類が増え、三葉虫やサンゴのほか、右下のイラストのようなさまざま な生物が爆発的に出現しました。 「カンブリア紀」最大の生物はアノマロカリス で、体長は約60cm、最大で200cmにも及ぶ化石も見つかっています。このように今の生物とは全く異なる体を持った生物がたくさんいたと考えられています。常陸太田市と日立市にまたがる「日立変成岩地域」の地層は、この時代から続 く地層で日本最古といわれています。

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常陸太田は石の宝庫

 常陸太田市は石の宝庫です。常陸太田市では1万4000年前の遺跡から石で作られたナイフが見つかっています。また、縄文時代( 約3500年前) の珠や古墳時代( 約1500年前) の瑪瑙の勾玉が見つかっています。
 また、茨城県北地域の東金砂山・西金砂山・真弓山・竪破山・花園山の5つの山は「常陸五山」と呼ばれ、古くから山岳信仰の対象とされてきました。常陸太田市の東金砂山・西金砂山などの地域では、江戸時代から明治時代にかけて、「町屋石」や「まだら石」などと呼ばれる蛇紋岩という石を使って石仏が作られていました。これは、江戸期の技術でも彫りやすく、また風化しにくかったため、よく用いられたといいます。また、蛇紋岩は水戸徳川家により一般領民は採掘禁止の「御留石」になっていたので、石仏などの特別なものにしか使用できませんでした。もちろん蛇紋岩にかぎらず、信仰の対象となった様々な石が多数点在します。
 長谷町の西堂平林道入口付近には、「コートランド岩」がみられます。
 この岩は水戸徳川家の「御留石」とされていて、瑞龍山の水戸徳川家墓所の参道敷石として用いられました。ちなみに、墓石には「町屋石」( 蛇紋岩) が用いられています。真弓山などでは「寒水石」とよばれる大理石がみられます。大理石は水戸徳川家9 代藩主・徳川斉昭の時代から石材として本格的に利用されたといわれています。こちらも江戸期では水戸徳川家の「御留石」になっております。この時代より、石碑や建築物などに利用されており、なんと国会議事堂の内装にも使用されています。
 このように、常陸太田市では古くから石を用いた文化が発達し、江戸期以降では石灰岩、大理石、角閃岩、雲母片麻岩、蛇紋岩などといった石材を利用し発展してきたことが分かります。また、同じ日立変成岩地域の日立市では、5億年前の花崗岩を見ることができます。

 

真弓山

 真弓山は、西金砂山・東金砂山・竪破山・花園山と合わせ「常陸五山」のひとつです。
 古くから信仰の山として知られ、真弓山にある真弓神社は、通称「お真弓さん」「真弓山王大権現」、御祭神名は、大己貴命、少彦名命であり、神木は真弓神社北側斜面の中腹にある爺杉です。八幡太郎義家(源義家)が弓を奉納した伝説をもつ推定樹齢900年の杉で、県の天然記念物に指定され、県内でも1、2位を争う巨杉なのです。
 以前は婆杉もあったのですが、落雷により焼失してしまいました。

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 また、真弓山では、寒水石と呼ばれる白い大理石が採取できます。

 

爺杉

推定樹齢:900年
根まわり:12.8m
目通り:9.6m
高さ:約45m

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表参道(見晴らし台)からの景色

 見晴らし台からの眺めは、太平洋を望み、大洗、鹿島工業地帯までが一望できます。春にはヤマザクラ、秋には紅葉が楽しめます。

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アクセス

【常磐自動車道】
日立南太田IC から車で国道293 号経由約10 分
下車後徒歩約25 分

【JR 水郡線】
常陸太田駅から車で約20 分
下車後徒歩約25 分

 

寒水石とは?

 茨城県北部から産出する「結晶質石灰岩」のことを寒水石といいます。
 結晶質石灰岩とは、別名「大理石」ともいいます。石灰岩がマグマの熱を受け、接触変成作用で再結晶したものであり、変成岩の一種です。

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 特徴として、上の写真のように純白です。また、薄く加工したときに透過する光の色彩の優雅さが挙げられます。加えて、岩石としては柔らかいです。(モース硬度※3)
 主に建築材料、装飾用、セメントの原料などとして、広く活用されています。
 寒水石は、弘道館公園の梅林の中にある八卦堂内の弘道館碑を建立するために、文政年間(1818〜1830年)に採掘がはじまりました。これが、日本の大理石採掘の創始とされています。
 寒水石の由来は伝説によると…「源義家奥州征伐途と大雪に遭いし折り、凝結して石と化し寒水石と名付けし」と伝えられています。真弓神社境内には、義家膝掛石として寒水石が残され名所となっています。
 また、偕楽園の吐玉泉の井筒にも寒水石は利用されています。

 弘道館碑の建立にあたり…連日の大雨で搬出不能となった時、徳川斉昭が白扇に「武士の 引立様と 曳く石を 真弓の神の いかで惜まむ」、「我が国の 道をひろむる 石なれば 真弓の神の 祟りあるまじ」と、和歌を2首献じ祈願して、無事建立したと伝えられています。
 その後、寒水石は、神罰を恐れ水戸藩の「御留石」として、永く一般領民の採掘が禁じられていましたが、明治以後、建築材料として利用されるようになりました。
 ※モース硬度:主に鉱物に対する硬さの尺度の1つ。硬さの尺度を、1〜10で表す。

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鍋足山

 常陸太田市の里美地域は、ぐるっと周囲を多賀山地の山々に囲まれています。その山々の多くは険しい山というよりは、比較的なだらかで曲線的な山体であるのですが、その中でひとつだけ、鋭い稜線をもち、ひときわ目立つ山があります。それが鍋足山です。
 では、いったいなぜ鍋足山だけが周囲と異なって鋭くゴツゴツした形をしているのでしょうか?

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鍋足山のでき方

 鍋足山には、トレードマークともなっている立派な3 つの峰があります。それらは次のようにしてできました。
 まず、鍋足山を作っている岩石は、他の多賀山地の山とは異なる「男体山火山角礫岩」という岩石です。この岩石は熱いマグマが海底で噴火したことにより、表面が冷やされ、バリバリに割れているのが特徴です。また、この岩石が多く広がっている地域は固く、風化や浸食に強いため、断崖地形を作りやすいのも特徴の一つです。
 つまり、多賀山地で鍋足山だけが険しい山体を持つのは鍋足山が「男体山火山角礫岩」からできているからなのです。

 下の「男体山火山角礫岩」の写真を見てください。全体的に角張っていてすごく硬そうなのが伝わってきます。

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鍋足”の由来

 みなさんは、鍋足山って変わった名前だなぁ…。鍋に足…?なんて疑問は抱きませんでしたか?
 実はこの名前、鍋足山の3 つの峰に由来しているのです。
 今からずっと昔の時代、食物を煮るのに「鼎」という3 つ足の鉄器を用いていました。
 その鼎の三脚と3 つの峰のそそり立つさまがよく似ていることから鍋足という名で呼ばれるようになったのだそうです。
 そう言われると何となく似ているような気がしませんか?

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金砂山

 西金砂山・東金砂山は真弓山・竪破山・花園山と合わせ「常陸五山」とよばれ、山岳信仰の聖地とされています。
 金砂郷地区にある西金砂山は標高418m、山頂からの眺めは素晴らしく、かの徳川斉昭も「眺むれば 心の隅も 打ちはれて さやかに匂ふ 遠の山の端」と絶唱したといいます。
 西に「男体山火山角礫岩」の絶壁がある天然の要害の地であったため、中世期には当時の豪族・佐竹氏の城郭としても使用されていました。平安時代末期、源頼朝が伊豆で挙兵した時に、同じ源氏方でありながら、佐竹氏四代当主の秀義は出兵しなかったために、頼朝に攻め込まれました。その決戦の場所が西金砂山でした。しかし、頼朝軍は、西金砂山の切り立ったゴツゴツした岩に阻まれ攻め倦んだといわれています。この戦いは、のちに、金砂城の戦いとして伝えられています。
 また、現在の西金砂山には自然が多く残されています。暖地性植物であるシダ類、スダジイ、カシ類、タブノキ、カゴノキや山地性の植物ブナなど多くの植物が生育しており、観察会などに適しています。
 さらに、最近では「西金砂登山マラソン大会」なども開催され、山あいの地形を活かした300メートルの高低差のあるコースが、ランナーたちのチャレンジ精神を掻き立てています。

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 また、水府地区にある東金砂山は、標高494m、西金砂山と相対してそびえる山で、「関東の比叡山」とも呼ばれています。西金
砂山の神であった女神が東金砂山の神に嫁いできたという伝説があります。また、この山で起こった雷は、常陸の国一帯に雨を降らせると言われ、「金砂の雷は一国の雨」ということわざがあるなど、様々な言い伝えが残されています。

 

金砂城の戦い

 今から800年以上前に西金砂山が紅葉の頃、山の中で繰り広げられた戦いを鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」から紹介します。

 治承4(1180)年11月4日、常陸の地に、馬上に甲冑武具を身につけ、武将たちを従えた源頼朝の姿がありました。同年8月、以仁王の令旨を受け平家に対するクーデターの兵を起こした頼朝は、10月、富士川の戦い(静岡県)で平家に大勝。その勢いで、源氏方にも関わらず頼朝の挙兵に従わない、常陸の国をおさめる佐竹氏を攻め落としに来たのです。世に言う「源平合戦」のはじまりでした。
 到着し、この地をよく見てみると、佐竹氏は常陸の国で非常に影響力をもち、国中に部下たちがあふれていることが分かってきました。
 「これは簡単にいかん。よく策を練ったほうがよいな」と頼朝は思い、早計に攻撃を開始することをやめ、軍議を重ねました。軍議の結果、まずは頼朝軍の中にいながら佐竹氏の親戚筋であった上総広常に佐竹氏の思惑を探らせに行かせました。
 上総広常はもともと平家方で、平清盛に勘当され頼朝に帰順し、「隙あらば頼朝を斬ってやる」と二心を持った人でした。しかし、この頃には頼朝の毅然とした態度にうたれ、忠臣となっていました。
佐竹一族の一人・佐竹義政は上総広常と会見し、「分かりました。頼朝様に参じましょう」と言いましたが、義政以上の軍事力をもつ佐竹秀義は、「父が都で平家に仕えている。簡単に頼朝様にくだることはできぬ」と言いはりました。
 平家の本隊を退けるほど強大な軍事力に膨れ上がっていた頼朝軍でしたが、佐竹秀義は父が平家に仕えていることもあり、頼朝との戦争を決意しました。すぐに戦支度を整え、金砂城(現在の常陸太田市・西金砂神社のある場所)に軍を率いてこもったのです。秀義、29歳の秋のことでした。

 こうして11月4日、歴史に残る「金砂城の戦い」が始まりました。
 頼朝はじめ以下数千の兵が、金砂城に総力戦をしかけました。

 現在の西金砂神社へ登ってみると分かりますが、城のあった西金砂山(405m地点)は「男体山火山角礫岩」と呼ばれる1500万年前の水中火山から吹き出た溶岩で構成され、ゴツゴツとした硬い山肌は急峻な渓谷と断崖を形成し、金砂城は天険の要害となっていました。

 山頂に布陣する秀義軍を目指し渓谷を進む頼朝の大軍ですが、絶壁の上から降り注ぐ矢、石つぶてに次々に兵卒が倒されていきました。隘路を塞ぐ岩石に、人も馬も歩を進めることができません。頼朝軍からも矢を射かけますが、崖上に届く気配もありません。

 「この金砂城。あの頼朝を、退けられるかもしれない」山頂から指示と檄をとばしながら、佐竹秀義は思いました。
 一方、頼朝軍は、攻め倦ね、兵士たちにもかなりの疲れが見えましたが、頼朝は兵を引きません。すでに西日は傾き、東の空に月がかかりはじめました。

 11月5日、寅の刻(午前4時頃)、武将たちがついに頼朝に進言しました。
 「佐竹秀義の要塞は、とても人間の力で破れるものではないようです。しかも、中にこもる兵は一騎当千の武者たちばかり、何か策を用いた方がよいのではないでしょうか」
 そこで、上総広常が献策します。
 「秀義の叔父にあたる者で、佐竹蔵人という人物がおります」
 「彼は智謀にすぐれていますが、強い権力欲があります。これを利用しましょう。武勲の賞を約束してやれば、きっと寝返り、秀義討伐にのってくるはずです」
 頼朝は、広常の案を採用しました。
 広常は早速、佐竹蔵人との交渉に向かいました。蔵人に広常は「現在東国においては、皆が頼朝様にくだっているのだ。わかっているだろう。秀義ひとりが抗ったって勝てはしない。味方もいない」「あなたが秀義の親族であることはわかっている。だからといってそんな戦いを一緒にする必要はないだろう?頼朝様のところへ来ないか。共に戦い秀義を討ち取れば、その領地をあなたに約束しよう。」

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 広常の読みどおり、佐竹蔵人は、恭順しました。すぐに広常とその兵たちを案内し、金砂城へ向かいました。秀義の築いた防衛ラインの穴をくぐり抜け、金砂城の後ろにまわった広常軍は、そこで鬨の声を上げました。
 城郭の中まで響く凄まじい怒号でした。想定外の方面からの攻撃に秀義軍は防戦体制を整えられず劣勢となり、ついには崩れ、兵は散り散りになりました。
 その後、佐竹秀義は、行方をくらましました。
 11月6日、丑の刻(午前2 時頃)、上総広常は秀義の去った城へ足を踏み入れ、城壁を焼き払うよう、指示を出しました。
 その後、兵たちに道々で秀義の行方をあたらせたところ、深い山に入り、どうやら花園城(現在の北茨城市華川町花園にある花園神社あたり)へ向かったようだと伝え聞きました。
 1500万年の時の流れを経て完成した男体山火山角礫岩の要害に守られ、辛くも勝ちを得られるかに見えた秀義ですが、身内の裏切りのため敗北を喫しました。鮮やかな紅葉に彩られた山道を、鎧で覆われた足で踏みしめながら花園に急ぐ秀義の胸中は、京にいる父のことでしょうか、裏切った叔父のことでしょうか、はたまた、源氏の色に塗り替えられていく乱世の行く末だったのでしょうか…。
 その後の頼朝は、佐竹討伐を果たし、関東地方の支配を強固にし、戦線を全国に拡大しました。5年間続いたこの内乱は、壇ノ浦における平家の滅亡で幕を閉じました。

 秀義は、花園に落ちのびた後、頼朝の家臣として列せられ、藤原氏との戦い(奥州合戦)で 再び武勲をあげ御家人となり、佐竹家は復活しました。
 その後、長く常陸の地をおさめていましたが、関ヶ原の戦いの際にも中立的な立場をとり、徳川家康に咎められて、現在の秋田県地方に転封されています。(ちなみに2012年現在の秋田県知事・佐竹敬久氏は、佐竹の家系です)
 西金砂山の紅葉の頃に歩いてみれば、金砂城を脱出し花園を目指した当時の秀義の気持ちが想像できるかもしれません。
 また、頼朝が戦うのに苦労した西金砂山の地形を観察し、歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

 

参考文献

・天野一男編著『茨城の自然をたずねて』(築地書館、1994年)

・常陸太田の自然調査編集委員会
 『常陸太田の自然2~里川流域とその周辺の自然と環境~』(常陸太田市教育委員会、1999年)

参考URL

・独立行政法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
 「ジオパークとは」
 http://www.gsj.jp/jgc/whatsgeopark/index.html
・茨城県北ジオパークネットワーク
 「茨城県北ジオパーク」
 http://www.ibaraki-geopark.com

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